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編集長インタビュー
 
 
 
 
今なお中日文化交流の架け橋であり続ける西郷隆盛
中村 龍道 鹿児島財界の重鎮Zann Corporation会長
11/23/2020 5:49:31 PM  文/本誌編集長 蒋豊
 
 

楓の葉が未だ赤く染まり切らない晩秋、いつまでもコロナ禍の制約に縛られているわけにもいかず、羽田空港から鹿児島へと取材に飛んだ。1980年代、田中角栄政権下の二階堂進内閣官房長官を取材した折、氏が語った言葉を思い出す。「機会があれば是非、私の故郷を訪ねて西郷隆盛のことを知って下さい。彼は日本と中国の近代化に大きな影響を与えました」。以来、私は明治維新の「三傑」の一人である西郷隆盛に関する書物を数多く読んできた。東京の上野公園を通りかかった際には必ず、西郷隆盛の巨大な像に足を運んだ。生誕の地である鹿児島県加冶町にドキュメンタリーの撮影に出掛けたこともあった。ところが、これまで鹿児島の人から直接、西郷隆盛について詳しい話を聞いたことはない。今回の取材で、その機会を逃すまいと決めた。


撮影/本誌記者 呉暁楽

鹿児島の財界の重鎮であり、長年、中日経済文化交流に従事してこられたZann Corporationの中村龍道会長が私の願いを叶えてくださった。氏は自ら、我々を西郷公園、墓地、神社、割腹自殺の地や数カ所の西郷隆盛像に案内して下さり、取材にも応じて下さった。そして、初めて御国訛りで語る鹿児島県人の西郷隆盛評に耳を傾けた。以下にその大要をまとめた。

—— 新中国建国のリーダー毛沢東主席は、17歳で故郷を離れる際、西郷隆盛の有名な詩「男児立志出郷関」(男児志を立てて郷関を出づ)を書き改めて決意を表しました。会長は同郷人として、当時、西郷隆盛が志を立てて京都や江戸へ向かったことをどう感じておられますか。

中村 私も新中国建国のリーダーである毛沢東主席が、若き日に故郷を離れる際、西郷隆盛の詩を書き改めたという物語を聞いたことがあります。あの詩は西郷隆盛本人が詠んだものではなく、彼が好きだった詩だという説もあります。しかし、それは重要なことではありません。重要なのは、最初の句である「男児立志出郷関」が全く同じであったことです。革命家というものは志が遠大で、大局観を持ち、小事に拘泥しないということを物語っていると思います。

鹿児島は日本の南端に位置し、辺鄙で閉鎖的な土地という印象をもっている人が多いと思います。しかし実際は、常にオープンでアグレッシブで活力に満ちていました。中国唐王朝の僧侶である鑑真が、挫折を乗り越え、六度目の航海で日本に上陸したのが鹿児島の地でした。日本の戦国時代に西洋から伝わった新しい武器である鉄砲は鹿児島から広まりました。江戸時代の鎖国政策下にあっても、鹿児島は密貿易によって発展しました。徳川幕府末期、列強諸国が日本に開国を迫った際には、鹿児島(当時の薩摩藩)と山口(当時の長州藩)だけが列強諸国と戦火を交えました。そんな開かれた風土の中で育った西郷隆盛は、開かれた心で鹿児島から飛び出し、明治維新を主導し、日本の歴史を変え、鹿児島県人からこの上ない尊敬を集め、模範とされてきました。

西郷隆盛についての評価は様々で、賛否両論あることも知っています。しかし、彼が改革者であり、日本の歴史を変えた人物であることを否定する人はいません。彼の鹿児島からの旅立ちは、正に歴史の転換点となったのです。

—— 西郷隆盛の評価には賛否両論あるとのことですが、中国人も彼の「征韓論」、「征台論」については意見があります。この点については如何でしょうか。

中村 如何なる歴史上の人物も、その歴史的背景から逃れることはできません。西郷隆盛の生きた時代は、西側の植民地主義が地球上を覆っていた時代であり、戦争によって巨額の富を得ていた時代です。日本も西側列強に脅かされていました。如何に、中国清朝のように西側列強から侵略を受けるという事態を回避し、当時の世界情勢の中で国を豊かにするかが、西郷隆盛をはじめとする多くの維新の志士たちの思いでした。

歴史は試行錯誤の中で進むものです。当時、西郷隆盛の「征韓論」は強い反発を受け、それが原因で彼は明治政府を去りました。残念なことに、日本はそれを教訓とすることなく対外戦争を続け、1945年の敗戦に至りました。それが、日本が戦争によって対外発展を果たそうとしたことは間違いであったことを証明し、今日の日本の「平和憲法」の歴史的要因となりました。これは歴史から学んだ深い教訓です。

西郷隆盛は「征韓論」を唱え、日本史上最大の内戦である西南戦争を発動したことから、彼を好戦的な人物と見る人もいます。彼は武力で問題を解決しようとしたこともありますが、平和裏に解決したこともあります。彼の働きで薩摩藩と長州藩は武力を行使することなく「薩長同盟」を結びました。また、勝海舟と共に江戸城の無血開城を実現し、その結果、今日まで東京は江戸の歴史や文化を守ってくることができたのです。従って、歴史上の人物は大局観に立って評価を下すべきと考えます。

—— 西郷隆盛は革命家でありながら、非常に人間的で、多くの女性と生活を共にし、沢山の子どもを持ちました。「無責任な男」との見方もありますが、この点については如何でしょうか。

中村 日本では「九州男児」、「薩摩男児」と言いますが、そこには、男性の強い「男尊女卑」の意識があります。西郷隆盛にもそういう意識があったかもしれません。

同時に、彼の不遇な人生も知る必要があります。彼は二度の流刑に遭っており、強い孤独を感じていたに違いありません。更に、何度も人に裏切られ、人を信じることができなくなったという可能性もあります。そんな苦境の中で、側に居てくれる女性は信頼できると感じ、彼女たちが彼に温もりをもたらしたのかもしれません。しかし、彼はまた、大志を抱く革命家でもあり、あちこちを奔走していたが故に家庭を守ることもできず、一人の女性の傍に居続けることもできなかったのでしょう。

従って、西郷隆盛という人物を考察する際には、革命家としての側面だけでなく、男性としての弱い面も見る必要があります。一つの人間味と言うこともできるでしょう。

—— 西郷隆盛といえば、「敬天愛人」の言葉で知られています。日本の現代の経営の神様と呼ばれる稲盛和夫氏も、この言葉を大事にしています。会長は稲盛先生とも交友があるそうですが、「敬天愛人」をどのように解釈しておられますか。

中村 私も大好きな言葉です。「敬天」とは、一義的には大自然への畏敬、「天意」への畏敬ということでしょうか。今日、我々はよく人間と自然との調和ということを言います。「敬天」を忘れてしまえば、人と自然の調和は成し得ません。二義的には「天」に対する信頼です。先ほども触れましたが、西郷は革命の途上で何度も裏切りに遭い、人を信じられなくなっていました。そして、天や自然を信じるようになったのです。彼は更に「愛人」を唱えます。つまり、彼は人を尊重し信頼したいと願いました。人に裏切られても、人を尊重したのです。この言葉は偉人の言葉であるだけでなく、世界に通用する言葉だと思います。

私は30年ほど前、「敬天水」という商品を生産販売し、一時、売れ筋商品になりました。「天を畏敬する水」だから売れるのだろうと感じたものです。西郷隆盛の40余年の生涯は、「敬天愛人」を実践した人生でした。

—— 日本の各所で「松陰神社」、「乃木神社」、「東郷神社」というものを目にします。そして、今日は「西郷神社」に案内していただきました。吉田松陰、乃木希典、東郷平八郎、西郷隆盛など「人」を「神」として祭ることについては、どうお考えでしょうか。

中村 人を神として祭ることについては、全く理解できません。人は人であり、神は神です。人が神になることは永遠にありません。

日本は多神教の国であり、800万柱の神々が祭られていますので、少しばかり増えても構わないでしょう。また、そういう形で日本人は偉人に対して尊敬の念を表しているのです。そういう形でしか、自分たちの敬慕の気持ちを表現できないのかもしれません。 

—— 西郷隆盛から現代の日本の若者が学ぶべき点はあるでしょうか。

中村 無論あります。日本の若者には、「オタク」と呼ばれる男女が存在します。彼らが西郷隆盛という人物を心に置いていれば、大きな志をもって、戸外へ、地域へ、海外へと果敢に繰り出し、世界に溶け込み、世界と日本の架け橋となるに違いありません。それには、西郷隆盛の開かれた心から学び、心に刻むことです。

取材後記

今回の鹿児島への旅は、「西郷隆盛を探る旅」となった。梁啓超、黄遵憲、王韜など近代中国の知的エリートたちは、かつて日本で西郷隆盛について学んでいる。このことから、西郷隆盛が中国の近代化に与えた影響の大きさをうかがい知ることができる。鹿児島を離れる際、中村龍道会長は特別に、西郷隆盛の胸像をかたどった焼酎の瓶と西郷隆盛と名付けられたラーメンをお土産に下さった。これらの品々を、私は西郷隆盛の故郷からの貴重な友情の証と受け止めた。西郷隆盛は今も中日文化交流の架け橋を担っている。

 
  情報元:人民日報海外版日本月刊  
 
 
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